春秋用の薄掛けが、剥き出しの肩を滑り落ちる。
その感触で目が覚めた。
すっかり水分を失って乾ききった喉が、からからと痛んだ。
寝室に柔らかく差し込む朝日に目を細めるが、ずいぶんと早く起きてしまったらしい。
太陽はいつも起きている時間よりもずっと低い位置に顔を覗かせている。
体を起こして初めて、自分も、そして隣でいまだ夢の中にいる相棒も下着以外の何も身につけていないことに気がつく。
普段ならきちんと後始末をしてから眠りにつくのだが、昨晩はなぜか嵐のように早急に事に及んだ後そのまま2人とも泥のように眠ってしまったようだった。
床に脱ぎ落としたままの寝巻きに、ぐしゃぐしゃに乱れたままのシーツ。まだ微かに精の匂いを孕む空気は、自分を組み敷いた彼の獣のようにぎらついた視線を思い出させた。背骨をぴりりと走った電流のような痺れに、思わず肩が跳ねる。
もともと相手が彼でさえあれば抱く、抱かれるに大した拘りはないので身を委ねたが、今回はずいぶんと泣かされたような気がする。眠りに落ちた記憶もないので、もしかしたら途中で意識を飛ばしてしまったのかもしれない。この身体は見た目相応に体力も持久力もあまりないのだ。
もう晩春から初夏に差し掛かるとはいえ、朝の冷えた空気は殆ど裸の体には少し肌寒い。
ベッドから抜け出し、床に落ちていた濃紺色のシャツを拾い上げる。下を履かないのも、自分のものではなく彼のシャツを羽織ったのも、昨晩好き勝手されたことへの軽い意趣返しのつもりだった。
自分の意思で体を許したのだから別に怒っているわけではないのだが、一方的にやられたままというのはなんとなく気に入らない。
シャツ1枚きりのしどけない格好のまま、ベッドの縁に腰掛ける。剥き出しの脚をぱたぱたと揺らすと、脹脛や内腿の柔らかい皮膚に散らされた情事の痕が覗いた。
寝室に仕付けられた大きな窓からは、柵でぐるりと囲まれた前庭が見渡せる。
煉瓦の井戸と、その傍に植えられたリンゴの木。小さな農具庫に薪割り場、それから自分が作った歪な花壇や野菜畑。
太陽の高度が上がってゆくにつれて、景色が徐々に彩度を増していく様が好きだった。
深い青を湛える海や湖も、ひと掬いすれば色を失って透き通るように。あるいは火にくべられて徐々に赤みを増していく石炭のように。
どこか褪せたような色をしていた夜明け前の景色がゆっくりと色を取り戻していくのは、世界の解像度が──それは、日に日に輪郭がぼやけていく己の思考能力と相反するように──上がっていくような心地良さがある。
そうしてしばらくはぼんやりと窓の外を眺めていたが、じきに飽いてしまってぱたりとシーツに横倒しになった。
これでも身体が資本の冒険者。回復力には自信があったが、普段は使うことのない筋肉を酷使したせいか下半身を中心にどうにも体が気怠い。
「……早いなぁ」
寝転がったまま首だけで振り向くと、ぼやけた蜂蜜色の瞳がしぱしぱと瞬きをしていた。
普段眠る時は緩く編まれている小麦畑の色をした髪は、今朝に限ってはシーツのあちらこちらに散らばって複雑な模様を象っている。
日頃から身だしなみに気を遣うキールが、昨晩は髪を結ぶ余裕すら無かったらしい。自分が記憶している限りでは(その記憶も、あちこちに穴が空いているのであまり信用ならないのだが)彼が髪をおざなりに扱うところを見たのは、恐らく初めてのことだった。
「おはよ」
「おはよう」
目覚めの挨拶も早々に名前を呼ばれて、シーツの上をころりと転がる。
億劫そうに上体を起こした彼の腹に頭を擦り寄せると、寝起きのぬるい体温の指がくるくると髪を撫ぜた。
昨晩はこの手に散々暴かれ、泣かされ、ただでさえ壊れかけの脳が溶けてしまいそうな程の地獄に何度も引き戻されたというのに。今はもうぬるま湯に頭まで浸かっているような、蕩けるような心地良さしか感じない。
「もう少し、寝ててもよかったのに」
「うん、でもおきちゃったから」
「二度寝すりゃいい」
「……あれは、あたまがいたくなるから、きらい」
キールは何も言わなかった。
ただ、くつりと喉の奥だけで笑ったような気配がした。
キールという男は自他共に認める朗らかで快活な性格の青年であったが、自分と2人きりの時は少しだけ口数が減ることを知っていた。普段の明るさは鳴りを潜め、柔らかく静謐な彼の輪郭がほんの僅かに顔を出す。
女性に対しては何かと格好をつけたがる彼のことだから、きっと今まで彼の恋人"だった"女性達は彼の寝起きでボサボサの頭も、不機嫌そうな顔で尻を掻いている姿も見たことはないのだろう。そう考えると少しだけ愉快な気分になった。
目の前の裸の腹に鼻先を擦り寄せてくすくすと笑う。
「なに、擽ったいよ」
「なんでも」
「そ。……昨日、ごめんな。無理させた」
「べつに。へいき」
いいよ、とは言わなかった。なんとなく、他でもないキール自身が許されたがっていないように感じた。
鈍い頭でも、彼に自分の知らない何かがあったのだろうということは薄々勘づいていた。普段の行為ならば、快感でぐずぐずに蕩かされることはあっても気絶するまで責め立てられたりはしない。
「そうか」
「うん」
髪をかき混ぜていた指がするりと顎の下を撫ぜたかと思うと、シーツに放り出されていた僕の手を掬い取った。
手の甲を撫ぜ、爪の生え際をなぞり、されるがままぬるい体温を分け合うように指を絡める。
ただそこにあるから触っている。退屈凌ぎに万年筆の蓋やカップの取手を弄るような、なんてことはない手慰み。けれど、なぜだか昨晩のセックスよりも気持ちがいいことのように感じた。
「ふふ、」
「……なぁに?」
「きもちいの?手。目とろんとしてる」
「うん、すき……もっとして」
指の付け根をくにくにと揉まれると、まるでミルクをねだる仔猫のようにくぅ、と喉が鳴る。存外に甘えて緩みきった声色に、キールがまた喉だけで笑うのが聞こえた。
それからはもう話すこともなくなったので、ふたり黙ったまま窓の外を眺めている。時折ふと思いついて相手の体をぺたぺたと触っては、悪戯が見つかった子供のように笑い合った。
脱ぎ散らかした衣服の片付けも、汚れたままのシーツや体を洗うのも、今日の予定の話も、ただの「幼馴染」「冒険の相棒」に戻るのも全部、太陽がいつもの高さまで上りきってから。どちらからともなくそう決めていた。
夜が明けたばかりの空はまだほんの少し褪せた色をしている。リンゴの木の天辺に茂る葉が、朝露でしとどに濡れた芝生が、花壇に植えられた未成熟な苗達が、僅かな朝日を照り返してはちらちらと輝いていた。
まるで星のように煌めく、命に溢れた緑色。
彼の膝の上に寝そべったまま、呼吸に合わせて上下する視界の中、夢を見るような気分でそれを眺めていた。
世界が色彩を取り戻すまでの間、2人でずっと。