ぴんからら。ぴんからら。
鳥が歌っている。
中庭に続くガラス戸にぺたりと貼りつくと、寝起きで体温の上がった身体に硬く冷えた感触が心地よい。
歌声の主は、灰色の胸と橙色の頭のコントラストが美しい鳥だった。
隅に植えられたネムノキの上で1羽きり、丸く黒い瞳がきょときょとと忙しなく動いている。
ぴんからら。
鳥がまたひとつ鳴く。名前はわからない。
「何見てるんだ?」
「とり」
「鳥?」
ぼくの視線を追うように、乱れていたベッドシーツを整え終わったキールが身を屈めて覗き込んできた。
「ああ、コマドリか。綺麗な鳥だよな」
「こまどり…」
「欲しいんなら、今度捕まえてきてやろうか。籠にでも入れて」
「ううん、いらない」
「そっか」
リンドウ王から王族の地位と共和国の土地を貰ってすぐに、自分達は冒険者を辞めた。
そろそろ腰を落ち着けないか、と提案してきたのはキールだった。
2人で分けても当分の間は裕福に暮らしていけるだけの稼ぎは手元にあったし、錬金術に長けている彼はこれから薬師や彫金師にでもなって生計を立てることも容易に可能だろう。
いつかはこんな日がくるとはわかっていたけど、誰か意中の女性と結婚でもするのかな……なんて寂しく思いながらもぼくは頷いたのだが、
予想に反して、彼が用意していたのはぼくと暮らすための家だった。
魔王だの神だの、平和な世界だのと難しい話で引き止めてくる知り合い達の手を、キールはおよそ彼らしくない強硬な態度で全て振り払った。
あれよあれよと連れて行かれた教会で冒険者の加護を引き剥がされ、そのまま手を引かれて貸切の牛車に乗せられ、気がついた時には外側に鍵のついたこの部屋に放り込まれていた。
それからずっと、ぼくは閉じ込められている。
「今日の体調は?」
「ふつう」
「それは何より」
部屋の隅に仕付けられている洗面台で顔を洗った後、服を着替えさせられ、ベッドに座らされて髪を梳かれる。
こうして人形のように世話をされるのもすっかり慣れてしまった。
初めの頃は自分でやっていた…ような気もするが、自分が櫛や歯ブラシなどを手に取るたびにキールが食い入るように見つめてくるのが居心地悪くて、いつからか彼に全て委ねるようになった。
大きな手が、絡まった髪を丁寧な手つきで梳いていく。
冒険者をしていた頃には肩につく程度の長さに揃えていた髪は、今はもう背中の半分ほどまで伸びていた。
今は切る理由も、道具もないのでそのままにしている。この部屋には鋏やペーパーナイフなど刃物の類がひとつも置かれていないのだ。
柔らかに跳ね回る猫っ毛はさぞ扱いづらいだろうと思うのだが、キールは毎朝ずいぶんと優しくそれに触る。
野良猫のような頭のぼくとは反対に、キールは冒険者を辞めた時に髪をばっさりと切ってしまった。
腰に届くほどに長く伸ばされていた髪は、今はうなじの辺りで短く揃えられている。
ぼくは彼の長い金髪が風に吹かれてきらきらと光るのを見るのが好きだったので、少しだけ残念だった。
渡されたカップを両手で包み、ぬるい水面をちろりと舐めて、サイドテーブルに置く。
蜂蜜と、何かの花の甘い香りがする紅茶だった。
「蜂蜜、好きだったよな?」
「うん、すき。でももういらない」
以前だったら叱られていたかもしれない。キールは何も言わなかった。
ほとんど身体を動かしていないので、量を食べられなくなった。
大好きだったホットケーキも、きっと今はもう小さな1枚すら食べ切れない。
本も新聞も、手紙すらも読まなくなった。
新しい知識を得ても、以前のようにキールは褒めてくれなくなったから。
絵を描くのも、花を育てるのも、キールに教えてもらったピアノを弾くのも全部やめてしまった。
小鳥の餌のような量の食事を摂って、とろとろと微睡んで、時折様子を見に来るキールと話して、気が向けばふらふらと中庭を歩いて、疲れたらまた眠る。
常に薄い水膜に覆われているような、ふわふわと夢と現実の間を揺蕩っているような、まろい感触の日々を延々と繰り返している。
ズボンの腰回りがずいぶんと余って邪魔なので、ベルトの穴をひとつ分きつく締め直してもらう。
キールが何かに耐えるように顔を顰めた。ここのところ、彼はぼくの身体を見るたびにこういう顔をしている。
「また、痩せたな」
「そうかな」
「いつも言ってるけど、食べたいものがあったら言えよ。すぐ作ってやるから」
「うん」
「別に食べものじゃなくてもいいんだぞ。玩具でも本でも、俺に用意できるものならなんでもいいから」
「うん。ありがとう」
とはいっても、今まで彼に欲しいものを言ったことはない。
ぬいぐるみも絵本も玩具もふかふかのクッションも、この部屋にはもう数え切れないほどあったし、寝具や衣服の類はいつでも清潔に保たれていた。
食事や菓子は毎日キールが運んできてくれる。
ふと、冒険者をしていた頃に海門の屋台で買ってもらったアイスクリームを思い出すことがあったが、あれは太陽の下でキールと並んで食べるのが好きだったので、この部屋でひとりで食べたいわけではない。
欲しいものなんてひとつもなかった。
一方で、彼が何も強請らない自分に苛立ちのようなものを感じていることも知っていた。
知っていてずっと無視をし続けている。
このままでいいのだろうか、と思うことがないわけではない。
けれど、今の自分が外に出たところで一体何ができる?
元々貧相だった身体からは僅かにあった筋肉や脂肪すらも削げ落ちて、手脚なんてまるで棒きれだ。
かつての相棒であった両手剣はもう持ち上げることすらできないだろう。
栄養が足りていないせいかいつもふわふわと眩暈がしていて、少し動くとすぐに眠たくなった。
あの日に優しく取り上げられた武器や防具はどこにいったのかも、キールが普段この部屋の外で何をしているのかも、中庭とこの小さな部屋を除いた家の間取りすらも自分は朧気にしか知らない。
知らなくていいのだと、甲斐甲斐しく世話を焼く彼が言外に示していた。
だから、ずっとなんにも知らないまま。
「……今日は、いい天気だな。もうすぐ夏になる」
沈黙を埋めるように、キールがぽつりと呟く。
天気も季節も、今のぼくには関係のないことだった。
まだ冒険者だった頃は夏が好きだったような気がする。
ほんの数ヶ月まえのことなのに、あの頃自分は何を考えて、何を感じて生きていたのかがうまく思い出せない。
この部屋に閉じ込められてすぐの頃、どうしてこんなことをするのか、と尋ねたことがある。
自分の頭では、彼がこんなことをする理由がどうしてもわからなかったから。
ぼくはこの部屋で何をすればいいの?
きみはぼくに一体何を求めているの?
怒りと困惑と、少しの恐怖でいっぱいになって喚くぼくをきつくきつく抱き締めて、キールは静かな声で言った。
『ただ、生きていてくれるだけでいい。』
思えば、彼はいつだって正しいことを言っていた。
ならきっと今回もそれでいいのだろう。それからぼくは、意識してそのことを考えるのをやめた。
この部屋は安全だ。衣食住が満たされていて、大好きな親友がそばにいて、身体や心が誰かの悪意に傷つけられることもない。まるで絵本の中のお姫様のような生活をさせてもらって、そうしてぼくが生きているだけで、キールも喜んでくれる。
それで、いいと思った。
脳みそがうまく働かなくて、ぼんやりと宙を眺めていたぼくの頭をキールが撫でる。暖かい手の平の動きに合わせて、首が赤ん坊のようにふらふらと揺れた。
昔はあんなに嬉しかったのに、彼に触れられても何も感じなくなったのはいつからだっただろうか。
「俺、今日はずっと家にいるからな。後でまた来る」
「うん」
「お前も寝てばかりいないで、少しは運動して……とにかく、いい子にしてろよ」
「うん」
ほとんど中身の減っていない紅茶のカップを持って、キールが部屋を出て行く。その後ろ姿を、ぼくはベッドに腰掛けたまま見送った。
かちゃん。扉に鍵をかける小さな音。
鍵なんかかけなくても、逃げ出したりしないのに。
もう、逃げ出せないのに。
手近に転がっていた兎のぬいぐるみを抱き上げ、裸足のままぺたぺたと音を立てて中庭に出た。
初夏の朝の日差しに暖められたのか、敷き詰められた石畳がほんのりと熱を持っていて気持ちが良い。
少しだけ機嫌が良くなって、空を踏むような覚束ない足取りで、くるくると踊るように歩き回る。
ふと、吹き抜けた風がわずかに鉄錆のような匂いを孕んでいたような気がした。
そういえばキールが「もうすぐ国同士の戦争が始まるかもしれない」と言っていたのを思い出す。
かつて彼と住んでいた国や共に冒険してきた国、その領地にある村や町のことを少しだけ考えて、すぐに興味を失った。
今のぼくにはどうしようもないこと。そして、どうでもいいことだった。
ぴんからら。ぴんからら。歌うように口遊む。
あの鳥の歌、また聞きたいな。
そう思ってネムノキを覗き込んだが、名前も思い出せない小さな鳥は、とっくにどこかに飛び立った後だった。