あの人と初めて出会ったのは……そう、確か酒場だったかしら。
まだ夏も真っ盛りの、暑い暑い夜のことです。
その晩はとてもお客さんが多かったそうで、うちの酒屋にもお酒の追加注文がたくさん入りました。
お父さんや従業員さんのお手伝いでお酒を届けに行った時、わたし、酔ったお客さん達に2階の奥まったテーブルへ強引に引っ張り込まれちゃったんです。
やめてください。離してください。
声を上げても、店員の女の子もマスターもお客さんの相手に忙しく、周りのテーブルはお喋りに夢中のようでした。
そのうちに隣の男の人が肩を抱いてきて、わたし、下を向いたまま怖くて動けなくて。
「兄さん達、そのくらいにしとけって。」
もう今にも泣き出しそうになっていたわたしを、
助けてくれたのがあの人でした。
陽の光みたいな髪がきらきらとランプの灯りを反射して、それがすごく綺麗で。
顔立ちが抜群に整っている訳ではないけれど、
「可愛い女の子がひとりでこんな所に来るのは危ないよ」そう言って笑った口の端から覗く八重歯がかわいらしくて。
一目惚れ……そうですね、まさしくそうだったと思います。
わたし、それから理由をつけて何度も酒場に通いました。
夜の酒場はまだ少し怖かったので昼間にですけれど、あそこだけがあの人とわたしの接点だったからです。
昼夜を問わず酒場にはいつも人が沢山いたけれど、あの人を見つけるのは簡単でした。
あの人が比較的目立つ容姿をしているのもありましたが、わたしの目にはいつも彼の周りだけが照らされたように輝いて見えていたからです。
いつも堂々と立つ彼のすらりとした背中を見つけるたび、わたしの胸はまるで全力で走った後のようにどくどくと弾みました。
冒険の相棒がいることは聞いていたけれど、なぜか彼はいつも1人でした。
「あいつ、人混みも酒の匂いも苦手だから、こういう時は別行動してるんだ」と笑っていましたが、わたしはその理由に妄想を膨らませては勝手にどぎまぎしたものです。
今考えると笑っちゃいますけどね。
あんな事があったからか、あの人はわたしを見つけるといつも声を掛けてくれました。
お使いの途中で偶然会った時には、重い荷物を持ってくれたこともありました。
わたしのちょっと古くさい名前を、張り切って着てきたとっておきのワンピースを、不器用ながらに頑張ったお化粧を、にっこり笑って可愛いねって褒めてくれました。
冒険者をしていること、市場の美味しいお店のこと、好きなお酒のこと、色々な話をしました。
わたし、昔から物凄く奥手で。お父さんやうちで働いてる人達以外の男の人に、そんな風に優しくしてもらったのって初めてで。
だからきっと、勘違いしてしまったんです。
わたしの生まれて初めての告白に、彼から返ってきたのは丁重なお断りの言葉でした。
「……気持ちは、すごく嬉しいんだけど。今は冒険者として生きることに集中したいから」
だからごめん、と深々と頭を下げたあの人のつむじを呆然と見つめながら、わたしは必死に考えていました。
彼は、いわゆる根無草の冒険者でした。住むお家も、お金もない。
その日の暮らしにも困るような哀れな人も多いと聞きます。
実はわたしの実家は古くから続く酒造で、直売店として大きなお店も持っています。
わたしと付き合って、うちで働けば連邦の城壁内に住まう権利が得られるんです。
わたしは1人娘だから、もしも将来結婚……なんてことになれば、あの酒造も大きなお屋敷もお店も、ぜんぶ手に入るんですよ。
それって、冒険者の人には願ったり叶ったりじゃないんですか?そのために旅をしてるんじゃないんですか?
震える声で捲し立てたわたしに、彼は眉を顰めました。その表情ははっきりと不快感を示していて、初めて見る顔にわたしは少し面食らってしまいました。
彼はわたしの前ではいつもにこにこと笑っていたから。
「……君が、それを望んでいるのなら尚更付き合えない。今冒険者を辞めるわけにはいかない」
「あぁ、でも、君の気持ちは本当に嬉しくて……ごめん。勘違いさせてしまうような態度をとった自分が悪かった。」
「どうしても助けたい人がいるんだ。その、とても大事な人なんだ。ずっと昔から」
だいじなひと。
その言葉を聞いた時、わたしは深い深い谷の底に突き落とされたような気分でした。
それって、あなたを好いている女の子をこんなに泣かせて、将来の安定を得るチャンスもなにもかも捨ててまで、助けなきゃいけないくらい『大事な人』なんですか?
例え振られたとしても、今までありがとうとか、貴方さえよければこれからもお話して欲しいとか、そういう気持ちを伝えよう。
家を出る前は確かにそう思っていたはずなのに、わたしは何も言えませんでした。
ただ大泣きしながらよろよろ走り去ったわたしに、彼もそれ以上何も言いませんでした。
追いかけてくることも、ありませんでした。
その後、どうやって家に帰ったのかよく覚えていません。
気がついたらあの時の格好そのまま、自室のベッドに凭れかかるようにうずくまって眠っていました。
お気に入りのイヤリングは片方失くなっていて、慣れないヒールで転んだのかあちこちに擦り傷ができていました。
大泣きした上にお化粧を落としていない顔は、汚れて腫れ上がって酷い有様で……うふふ。あの時の顔、あなたにも見せてあげたいくらいです。
まるでシノビーヌに100回殴られたヌッシーみたいな、本当に笑っちゃうくらい酷い顔だったんですから。
それからひとつきくらい泣いて喚いて部屋に閉じこもった後、わたしは連邦の街中を歩き回るようになりました。
あの人に会うために通っていた酒場、あの人と話した公園の遊歩道、それからあの人が勧めてくれたお店のある市場。
子供の頃からずっと続けてきた配達も店番も、お酒造りのお手伝いも全部サボっちゃったんですけど、両親は心配そうに見てくるだけで何も言ってきませんでした。
わたし、ずっと反抗期らしい反抗期もない大人しい女の子でしたから。初めてのことで驚いていたのかもしれませんね。
え?
いやだ!ストーカーなんかじゃありませんよ。
だってわたし、あの人に振られたこと自体は受け入れていたんですもの。
ただ、あの人の『大事な人』とはどんな人なのか。一目でいいからこの目で確かめたかったんです。
……いいえ。本当はその彼の言う『大事な人』が、不細工で汚くて太ってて、わたしより少しでも綺麗じゃない人ならいいなって思ってたんです。
あんなに趣味の悪い人と付き合わなくてよかった、って安心したかったの。わかるでしょう?
そうやってあの人を追いかける日々をしばらく続けていた時。
わたしはようやくあの人と、たぶん彼の『大事な人』を市場の中で見つけました。
あの人の『大事な人』……あの子の第一印象は、周りから少し浮いた雰囲気の子、でした。
年は15、6くらいでしょうか。あの人よりずっと華奢で、性別の判りにくい顔立ちをした子でしたが、服装や体型を見るに男の子です。
怯えた顔で辺りをきょろきょろと見回す仕草と……怪我をしていたのかしら?
身体のあちこちに巻かれた包帯が、どことなく危ういような印象の子でした。
……不細工だったかって?
もしそうだったら、ちょっとは気が楽になったんですけどね。
人混みが苦手なのか、あの人の服の裾をぎゅうと握っていて。
それに気づいたあの人が、あの子の肩に手を添えて、そっと自分の外套の陰へ庇うように押しやるのを見ました。
前に通りでわたしを馬車から庇った時にしてくれたのとは、全く違う手つきでした。
あの人の顔を見上げて、強張った表情をしていたあの子が安心したようにふにゃりと笑います。
その頭を優しく撫でて、あの人が微笑みました。
いつもわたしに向けてくれていた笑顔とは、全く違う顔でした。
わたしは黙ったまま、ただ呆然と2人を見つめていました。
本当は言いたいこと、いっぱいあったんですよ?
「その子が旅の相棒なの?」とか、
「あなた、男が好きなの?」とか。
「そんなに細くて小さい男の子を選ぶんなら、女のわたしでもいいんじゃないの?」とか……すみません。これはちょっと、よくないことですけど。
でも結局は何も言えませんでした。喉も目もからからに乾いて、お魚みたいに口をパクパクさせるだけ。
わたしったら、その時ようやく気がつきました。
いいえ。心の底ではとっくに気づいていたのですが、認めたくなかったのです。
あの人も本当はわたしが好きで、けれどわたし達にはどうしようもない何かの障害のせいで恋人にはなれない、そんな甘い幻を見ていたかったのです。
後から来たわたしが入る隙間なんて、最初からどこにもなかったの。
……それからしばらくして、わたしは親の薦めでお見合いをしました。お父さんの古くからの知り合いの、小さな工場を営むおじ様のところの末の息子さん。
茶髪の癖毛に眼鏡をかけていて、真面目で優しくて、食事の所作がとても綺麗で、そしてあの人とは全然似ていない男の人です
。きっと、わたしを幸せにしてくれると思います。
結婚式は海辺の教会の予定で、もう招待状も出し終わりました。
家族も友達も、奥手なわたしにようやく相手が見つかったって喜んでくれて……そうね、丸く収まった、そんな言葉がぴったりだと思います。
あの人のことも、いつか娘にでもせがまれた時に笑って話せるような、そんな思い出になるのでしょうね。
これで、わたしの初めての恋の話はおしまい。
本当にどこにでもあるような、つまらない失恋話だったでしょう?
でも、こうやってお話したのは貴方が初めてです。他人の恋のお話が聞きたいだなんて、見かけによらずロマンチックなのね。
……え?あぁ、もうちょっとで着きますか。よかった。
今日はお義母さまとの初めてのお茶会なのに、遅刻したりしたら大変だものね。
聞いてくれてどうもありがとう、御者さん。