一伍一充


ジャムが好きだった。

 

ぶどうにりんご、オレンジ、ラズベリー。

あんずも梨も、バナナも。ピーナッツが入ってるやつも好きだ。

前にエナちゃんとマナちゃんがくれた、確か牛乳を煮詰めて作られたというジャム。牛乳は嫌いだけどあれはすごくおいしかった。

あんまりおいしかったので、朝昼晩と連続でパンに塗って食べていたらキールに笑われてしまった。

 

全部好きだけど、キールがたまに作ってくれるいちごジャムがいっとう好きだ。

砂糖を目一杯入れるから歯が溶けるくらい甘くて、ちょっとレモンの香りがする。

キールがヘラで丁寧に潰すのを面倒臭がるせいで、いつも大きな果肉がごろごろといっぱい入っている。

スプーンで掬って頬張ると、口の中で種がぷちぷちと弾けて楽しい。

何より色がすごくすごく綺麗なのだ。

 

目が覚めるほど赤くて、

そう、すごく赤くて、

 

まるで今のぼくみたいだったなぁ、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

ゆるゆると瞬きをする。

少しの間、意識が飛んでいたようだった。

 

「……キール」

「なに」

「……あ、のね、ジャム、たべたいの。いちごの…」

 

こんな時に食い意地が張ってんなあ、とキールが呆れたように笑う。

肩と背中がくつくつと揺れて、背負われているぼくも一緒に揺れた。

裂かれた腹の隙間からはみ出たぶよぶよが、擦れてにちゃりと嫌な水音を立てる。

痛みはもう感じないけれど、その感触は少しだけ気持ちが悪い。

 

「じゃあお前、苺の水やりサボるなよな。今朝も俺がやったぞ」

「…さぼって、ないもん。……わす、れた、だけ」

「世間一般ではそれをサボったと言うんですぅー」

「あした、は、ちゃんと、やるね」

「………はは、寝坊して忘れんなよ」

 

咳き込むと、口の端に溜まっていた血がぼたぼたと零れて、キールの服の肩口を随分汚してしまった。

怒られちゃうかな、と焦ったが、彼の背中も腕もすでにぼくの血でぐっしょりと濡れているので今更なのかもしれない。

この服、確かキールの最近のお気に入りなのに。帰ってすぐに洗ったら落ちるだろうか。

 

視界がぐらぐらと揺れて仕方ないので、キールの肩に頭を乗っけるように凭れかかる。

抉られた右肩から何かが飛び出しているなぁ、と思って見ていたら、どうやら骨のようだった。

人間の骨って、それだけ見ると思ったより白くない。

でも赤い血とか桃色の肉とかの中にあると輝くような真っ白に見えるから不思議だ。

どんな人間でも、身体の中にはこんなに綺麗なものが入ってるのかな。

ぼくにも、キールにも、エナちゃんやマナちゃんにも、ユーキくんやカレンちゃん、ケインにも。

きっと、ぼくのことを役立たずだと罵った、あの人達の身体の中にも。

 

 

「苺だけでいいのか?ぶどうとかオレンジとか……確かりんごもあったけど」

 

「………ぅん、いちごがい、い」

 

「お前、苺好きだよなぁ。俺はちょっと甘すぎてあんまり」

 

きみが作ったやつだから好きなんだよ、と言おうとしてまた咳き込んだ。

喉奥で血が泡立ってごぽごぽと鳴り、口の端から赤い泡が滴り落ちる。

地上にいるのに、まるで水の中で溺れているみたいだった。

 

「昨日採ったやつがあるから帰ったら作ってやるよ、苺ジャム」

 

ほんとう?

嬉しくて声を上げたつもりだったのに、もうぼくの喉からは、風が狭い隙間を通り抜けるような音しか出ない。

 

潰された右脚の先から、辛うじてぶら下がっていた小さな肉の塊がぷちぷちと千切れて落ちていく。

キールが歩くたび、剥き出しの血管と神経、組織が壊れて柔らかくなった肉が垂れ下がり揺れた。

ぼくの脚は膝の少し上あたりからぐちゃぐちゃにされてしまったから、きっと体重もその分減ってしまっただろう。

またキールに、ちゃんと食べて太らないとだめだぞって怒られてしまう。

 

 

「ジャムさ、何にかけて食べたいの。パン?ヨーグルト?それともホットケーキでも焼いてやろうか?」

 

 

「……なぁ、……………」

 

キールが、顔を傾けて少しだけ振り返ってくれた。

掴んだ肩が少しだけ震えている。笑っているような気配がするけれど、もう目がほとんど見えなくてわからない。

ぼくもなんとか笑い返そうとしたが、唇の端を僅かに動かすだけで精一杯だった。

ぼくは昔から感情を表に出すのが下手くそで。

キールはそれでもぼくのことを大体は理解してくれてたけど、せめて彼が笑ってくれた時くらいは自分も笑って返したかった。

 

いつの間にか辺りがずいぶんと暗くなった。

さっきお昼ご飯を食べたばかりのような気がするが、もう夜が近いのだろうか。

いちごのジャムもホットケーキも、まだ作ってもらってないのに。おやつの時間はもう過ぎちゃったのかな、と心配になる。

キールはずっと歩いているけれど、まだ家にはつかないのかな。

ここ、どこなんだろう。

頭がうまくはたらかない。

おなかがすいた。

てあしの先がさむい。

せなかがあたたかい。

めがみえない。

くらいのがこわい。

ひとりになりたくない。

 

 

 

……なんだか、さっきからひどくねむたい。

 

 

 

 

「…ほら、もう眠いんだろ。」

 

 

「馬鹿だなぁ、無理して喋って…お前、……」

 

 

「着いたらちゃんと起こしてやるから、それまで寝てな」

 

 

ああ、それならいいか。

ほっと息を吐いて、ぼくは安心して目を瞑る。

料理をしているキールの後ろ姿を、座って眺めているのが好きだった。

できあがったら食卓を綺麗に拭いて、お皿を並べて、フォークやスプーンを用意するのがぼくの仕事だ。

今日もきっと、帰ったらいつも通りに。

 

 

 

 

「………おやすみ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺の服を弱々しく掴んでいた手が、ぽとりと滑り落ちた。

 

背中の重みが消えることはない。

街や村の中で命を落とした者には、冒険者の加護は発動しないからだ。

 

事切れた相棒を背負ったまま、寂れた村の広場をぼんやりと眺める。

普段なら仕事帰りの男達や遊び疲れて家路に着く子供達、夕飯の買物をする女達で慎ましくも賑わいを見せているのだろう。

今は猫の子1匹とて歩いていない。

 

どの家も、扉も窓も、カーテンすらも隙間なくぴっちりと閉め切られている。

先程話をしたばかりの村長の屋敷すらも同じ有様で、まるで村全体から『早く出て行け』と言われているようだった。

 

 

 

 

 

今朝、畑を荒らす魔物を倒しに来てほしい、と酒場で緊急の依頼を受けた。

 

少し前から、徒党を組んだ魔物の群れが定期的に村を襲うようになったのだという。

村の若い男衆を集めても太刀打ちできず、昼夜問わずの襲撃に村民達は疲弊し、既に女性や子供を含む何人かの犠牲も出ている。

作物はろくに採れなくなり、家畜はほとんどが食い殺された。村は食糧不足と人的被害で危機的な状況だという。

村中から必死でかき集めたのであろう、僅かなzellの詰まった布袋を痛々しく感じて、2人ですぐに向かうことを決めた。

 

 

……行かなければよかった。

どことも知れない村の顔も知らない村人達なんて、放っておけばよかったのだ。

 

 

結論から言うと、依頼はすぐに解決した。

いつものように畑の作物を荒らしに来た下っ端の魔物を捕まえて、親玉の居場所を吐かせて、群れごと全て叩き潰した。

殺してしまうと魔物は記憶を失って復活してしまう。

また村を襲いかねないため、この村に2度と手は出さないことを約束して、他所へ行くように追い払う。

今まで何度も受けて、何度も解決してきたような、ありがちな依頼だった。

 

依頼人だと名乗る娘は飛び上がって喜んだ。

年老いた村長は、涙を流しながら俺達の手をぎゅっと握った。

子供はやっと外で遊べるとはしゃぎ回り、男はさぁこれから忙しくなるぞと腕を捲り、女は明るく笑いながら竃に張っていた蜘蛛の巣を払い除けた。

 

誰もが喜び、安堵していると思っていた。

 

 

 

「あんなひ弱そうな少年が簡単に倒せてしまうなんて、実は弱い魔物だったのでは?」と考えた老人が、報酬を減額するべきだと言い出した。

 

母が餓死するのを見ていることしかできなかった若い男が「こんなにすぐ解決できるのなら、何故もっと早く来てくれなかったのか」と怒った。

 

先月、目の前で子供を喰い殺された母親が「あんなに簡単に、涼しい顔で。あの子は生きながら頭から喰われて、あんなに苦しんで死んだのに」と咽び泣いた。

 

あまりの手際の良さに、あいつらは元々あの魔物達と繋がっていたのではないか、と邪推した捻くれ者がいた。

 

何かを喪った人々は、ずっとやり場のない怒りと悲しみの矛先を探していて。

そしてそれが、確かに恩人であるはずの小さな背中に向いた。

 

 

それだけの、よくある話だ。

 

 

 

俺が村長と村の警備体制について話すために留守にした間に、ひとり待っていた彼を数人がかりで引き摺り出したのだろう。

使い古された農具を、台所の包丁を、狩猟用の鉈を、それぞれの手に携えて。

 

 

俺は、干し草小屋の裏に打ち捨てられていた赤黒い『それ』が相棒だと気づけなかった。

 

 

 

 

 

もう歩く気力もなくて、ずるずると石畳の上に座り込む。限界だった。

 

背負っていたそれを崩れないように静かに下ろして、胡座をかいた膝の上に抱き上げる。

大量の血液と脚が1本失われたはずなのに、相棒だった肉の塊は未だずしりと重い。

血塗れの口元や頬を袖で拭い、隙間から虚ろな瞳を覗かせていた瞼をきちんと閉じさせてやる。

乱雑に裂かれた腹部からはみ出していた内臓は、脱いだ上着を掛けて隠した。

 

「辛かったな」

 

撫でた髪はごっそりと血で固まっていた。

外傷性の失血死は痛みと寒さと……それから死への恐怖で絶命までの間酷く苦しむ。

加護を受けた冒険者なら誰だって知っていることだった。

 

 

早く出て行けよ、と密やかな声が聞こえたような気がする。

 

 

儂は知らない、村の者が勝手にやったことだから、と弁解する村長の声が、そいつが悪いのよ、そいつが遅いせいで私の子がと喚く女の声が、頭にこびりついて離れない。

ずっとずっと、全身に煮え沸る油を浴びせられているような感覚だった。

 

 

通り沿いにある家の窓が不意に開いて、広場に何かが放り込まれた。

湿った音を立てて目の前に落ちたそれは、野菜の皮に果物の芯に……あれは卵の殻だろうか。

それを皮切りに、空き瓶や丸めた紙くず、小石などが次々と広場に投げ込まれ、石畳にぶつかっては弾けて転がっていく。

 

紙くずのひとつが頭に当たる。

ぽこん、と間の抜けた音がした。

 

彼を喪った今の世界は、遅かれ早かれいずれ滅ぶ。

そして自分だけがまた別の世界に飛ばされて、あるいは世界を巻き戻って、冒険者として旅立つあの日から始まるのだ。

そこに至る過程こそ毎回違えど、数えきれないくらいに繰り返してきた。

 

色を失った唇を指でそっとなぞる。

あの舌足らずな声は、この世界ではもう2度と俺の名前を呼ばない。

助けられないとわかった時の絶望感にも、腕に抱いた身体がどんどん冷えて硬くなっていくのにも、自分が傍にいながら死なせてしまった無力感にも、もう慣れているはずだ。

この、瀕死の彼を見つけた時からどろどろと降り積もっていく感情はなんだろうか。

 

この世界の『コノハ』が死んでしまった以上、俺ができることはもう何もない。

後はこの世界が戦火に包まれて滅び、次の世界が再び始まるまで、次の『コノハ』と出会う時まで大人しく待っていればいい。

 

 

 

…………本当に?

 

 

 

どこからか怒号が聞こえた。

複数の足音が聞こえた。

がちゃがちゃと、何か鉄が擦れ合うような音が聞こえた。

死体を抱えたまま座り込み微動だにしない俺に、村の男達は業を煮やしたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

この世界はどうせ滅びる。

ここに生きている人も、物も、歴史も、何もかもが存在しなかったことになる。

それなら、それなら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………それなら、こんなくだらない村ひとつ、今ここで滅んだっていいんじゃないか?