親愛なる お母さま
お元気ですか?
春の旅行でそちらに遊びに行って以来ですね。
わたしとお父さまは元気です。
わたしの方は特に変わりありません。
お医者さまになるためのお勉強も毎日欠かさず続けています。
(お父さまの授業は、リースにはまだちょっと難しいこともありますが……)
そうそう、このあいだ新しいお友達ができました。少しだけ変わっているけど、とっても優しい女の子です。
今度はいつ頃おうちに帰ってきますか?
お母さまにもぜひ紹介したいです。
夏が終わって最近はめっきり涼しくなってきましたが、どうかお体に気をつけて。
ちゃんとご飯を食べてくださいね。
お母さまは集中するとご飯もお風呂も寝るのも忘れちゃうのでリースは心配です。
お返事をお待ちしています。
愛をこめて
リース・ホワイト
少女らしい丸みを帯びた文字を指で撫でて、私は微笑む。
仕事ばかりで殆ど構ってあげられないというのに、私達の愛娘は本当に素直な良い子に育ってくれた。
今度の休日には、何かあの子の好みそうな玩具やお菓子を沢山買って帰ろう。
黄色い花の絵が描かれた便箋を小さく折り畳んで、引き出しの小箱に丁寧に仕舞う。
返事には何色の便箋を使おうか、何を書こうか。綺麗な栞でも同封したらあの子は喜んでくれるだろうか。考えるだけで自然と頬が緩む。
伸びをしながら見上げた時計は午前2時を少し回ったところだ。
ひと休みしてから巡回に行って、それからずいぶんと溜め込んでしまったカルテの整理でもしようか。
特殊な労働環境ゆえか医者も看護婦も不足している上、記帳係を雇う余裕もないため細々とした雑務は溜まっていく一方である。
「……さて、」
眠気覚ましに濃く作っておいたコーヒーを注ぎながら、私は開けたままにしていた扉からこちらを窺っていた『その子』に声を掛けた。
「そんなところにいないで、こちらにいらっしゃい」
とっくに消灯した廊下の暗闇、その輪郭がふるりと崩れた。
闇に溶け込むような黒髪が、診察室の煌々とした灯りに照らされて姿を現す。
おっかなびっくり白い顔を覗かせた少年は、私の受け持ちの患者のひとりだ。
少年……彼の実際の年齢を考えると青年と呼ぶべきなのだろうか。
不安そうに指先を食む仕草も、男性用の病衣がぶかぶかになってしまう貧相な身体つきも、もうすぐ成人を迎える青年のものだとはとても思えないのだが。
顔を隠すように抱えているボロボロのぬいぐるみの後ろで、大きな瞳がきょどきょどと揺れている。
まるで、粗相をしてしまった飼い犬が、主人に叱られるのを待っているような表情だと思った。
「眠れない?」
立ち上がった私の視線から逃れるように、包帯と保護用のネットが巻かれた頭が俯く。
やや不眠症の気があるこの子には効きの強い睡眠薬を処方していたはずだが、看護婦が飲ませ損なったか。
所在なさげに佇む少年の背をそっと撫で、隅に診察台として仕付けられているベッドに座らせる。
「せんせ、あの、えっと…ごめんなさい……」
「あら、どうして?むしろ来てくれてうれしいわ。今夜はとっても静かだから、先生もちょうど話し相手が欲しかったところなの。」
少年がきょとんとした顔で首を傾げた。
いつもどこかぼんやりと曇っていて、意志の読み取りにくい硝子玉のような瞳をゆっくりと瞬かせている。
仕草も表情の作り方もまるきり幼子なのでわかりづらいが「あの子、多分ちゃんとしたら綺麗な顔してますよね。」と若い看護婦が話していたのを思い出す。
とはいえ、今のガーゼと瘡蓋に塗れた顔は、この子とは親子ほども年の離れている私にとっては痛々しい印象の方が強い。
「ほんと?」
「ほんと。眠れないなら何かあったかいもの、飲む?」
「うん」
こぼさないようにね。
割れにくい素材で作られたコップに入れた白湯を手渡してやると、少年はそれを両手でぺたぺたと撫で回した後「あったかい」と呟いた。
『……高所からの転落による頭部外傷。
強い精神的ストレスに伴う重度の退行行動。』
その下に大きく赤字で走り書きされた『自宅にて自殺未遂 要観察』の文字。
乱雑に積み上げられた束の中にあったカルテ、そこに記された無機質な文字列を思い出す。
その内容は少年が入院していた数ヶ月間、追記も修正もついぞされることはなかった。
外傷を除き、治療はほとんど効果を示さなかったからだ。
入院当初に見られた自傷癖や癇癪などはある程度緩和されたが、この幼い子供のような振る舞いは一向にそのままだ。
いっそ頭を切り開いて脳味噌を診てやれば何かわかるのかもしれないが、そんなことができる技術も金もこの病院にはない。
私達にできたのは、幼児同然のこの子に最低限の身の回りの世話のやり方と一般常識を教え直すことだけである。
「明日は何時にお迎えなの?」
「えっとね、おにいちゃんのてがみにね、おひるまでにじゅんびしときなさいってかいてた」
「あら、じゃあ頑張らないとね。お片付けできない子のところには………誰が来るんだっけ?」
「だれ…?……あ、ちらかしおばけだ!」
両手を顔の横に持ち上げて大袈裟にゆらゆらと揺らすと、きゃはは!と弾むような笑い声が上がる。
共用の遊戯室に置かれている、絵本に登場するお化けの真似。
こうして無邪気に笑うようになってくれたのも、つい最近のことだったように思う。
……とはいえ、意気込む少年には悪いが、嵌め殺しの窓とベッドしかない小さな病室には患者に片付けてもらう場所など殆どないのだが。
「せんせは?あしたもいる?」
「いるわよ。先生は他の患者さんとお話しなきゃいけないから、お昼に会いに行くね。ちゃんとお見送りしてあげるから」
「うん」
少年が、床に垂らした足をぷらぷらと揺らす。
あまり上等なものではないベッドの脚がきしきしと音を立てた。
病室に置かれている頑丈なベッドと違い、ここに置くものは壊される心配も拘束具を付ける必要もないため、安く譲ってもらった最低限の質のものを使っている。
二言目には経費削減、と口癖のように言う院長の顔が思い浮かんだ。
「ぼうけんしゃって、なにするの?」
「……さあ。実は先生もよく知らないのよ」
「せんせもしらないことあるの」
「そりゃあるわよ。沢山ね」
「おにいちゃんならしってる?」
「どうかしらねぇ。知ってるかもしれないわね」
この子が明日退院するのは治ったからでも、転院するからでもない。
近々成人を迎えるので、この国を出て冒険者になるためだと聞いていた。
教会で加護を受けて、連邦を出て、武器を携えてどこに行くでもなく旅をする。
治療がまだ済んでいないのに、同じ理由で退院していく若い患者は今までにも何人かいた。
その中の誰かひとりでも、連邦に戻ってきたという話を聞いたことはなかったが。
「お兄ちゃんのこと、好き?」
「うん、だいすき」
「そっか」
おにいちゃん。
身寄りのないこの子の同居人であり、身元引受人の青年のことだ。
長身にきらきらと輝く金髪、派手な服装が目立つが、見た目に反して誠実で責任感の強い青年だというのが何度か話した私の印象である。
この子は兄と呼ぶが、同じ村の出身というだけで彼らに血の繋がりはないと聞いていた。
数ヶ月前、白痴のように意味もない喃語を繰り返すこの子を連れて来た時の、やつれた姿を思い出す。
商店や酒場、炭坑などで手伝いをしては細々と日銭を稼いでいると言っていた。
「あのねえ、おにいちゃん、やさしいんだよ。いつも」
「そうなの?」
「うん、まいにちごはんもおやつもくれるし、ねるときそばにいてくれるし。あとね、ボタンのついたふくもきせてくれる」
「あら、素敵。それから?」
「それから、それからねえ……」
捲し立てるように話しているうちに恥ずかしくなったのか。
少年は照れたように笑い、傍らに放り出されていた襤褸切れ…もといぬいぐるみを抱き上げて顔を隠してしまった。
病衣のだぶついた襟ぐりから、ずいぶんと薄くなった痣が覗いている。
入院してきた当初からある、痩せた首をぐるりと輪で囲うようなそれの意味を、この子の壊れてしまった頭と心は理解することができない。
果たして、本当に優しい人間が友人を自殺未遂まで追い込んだりするかしら、というのはさておき。
きっちり毎月欠かさず渡しにくる金と、我々へ宛てた丁寧な感謝の手紙。
それからこの子に持たされた細々とした玩具や、安物だが清潔な着替え。
高額な治療費はその日暮らしの青年にとっては大きな負担だっただろうに、支払いが遅れたことは一度もなかった。
それらを見ていれば、今のあの青年はこの子を愛しているのだということくらい痛い程に理解している。
「ここにいるとね、あんまりあえないから、だからね、あしたからいっしょにいられるの、うれしい」
「そうね。よかったわね」
「ぼうけんしゃ、たのしいことだといいな……」
少年がぬいぐるみに頬ずりして、屈託なく笑う。
まるで、友達から新しい遊び場を教えてもらうのを楽しみにしている子供のような顔だった。
小さな頭を撫でて、絆創膏だらけの手からカップを預かる。中身が半分ほど減っていることを確認して、机の端にそっと置いた。
冒険者。口減らしと揶揄されることも多い。
残酷な風習だと思う。残酷で、無情で、だがこの国にとってはきっと正しい。
病床の身や高い身分の子だったり、かつての私のように家業を継ぐなどして冒険者にならない若者も存在する。
が、いずれにせよちゃんとした身寄りや充分な資産、住む家があること、ちゃんと連邦に貢献できる仕事や技術を持っていることが最低条件だ。
この子と、あの青年。金も身寄りもない2人がこれからも一緒にいるには、もう冒険者になる『しか』生きていく方法がないのだろう。
それはなんだか、すこし。
「……やるせないわね。」
私は一般的な大多数の医者と同じように、退院した全ての患者に幸せな人生を送ってほしいと願っている。
一方で、きっとこの子はそうはならないのだろう、ということも頭のどこかで理解していた。
白湯に混ぜた睡眠薬が効き始めたのか、ことんことんと船を漕ぎ始めた少年をベッドに横たえる。
効きが強く、速効性がある代わりに副作用も強い薬だ。
明日の朝……もう今日になるか。吐き気止めを飲ませてやらなければ。
そっと指を通した髪はごわついていて、太さも長さもバラバラだ。
好き嫌いが多い上に酷く少食なため栄養状態も悪く、頭皮のあちこちが荒れて瘡蓋ができている。
明日ここを出る前にこの酷い頭も少しだけ整えてやろう。散髪用の鋏が、どこかの金庫にあったはずだ。
この病院では、患者には鋏やペーパーナイフといった刃物の類はおろか、鉛筆の一本すらも一切渡してはいけないことになっていた。
我々は診察室の机や備品倉庫には必ず鍵をかけ、白衣の胸に筆記用具を挿しておくことすらも避けている。
タオルやシーツは細く裂けない素材のもの、病室の窓にカーテンの類は掛けず、窓硝子や食器は割れにくい素材のもの、または割れても破片が粉々になるものを使っている。
理由は言わずもがなだろう。
彼らに渡されているのは石鹸やランプの油などの僅かな生活用具、薄っぺらい病衣とスリッパ、柔らかなクレヨン。
それから紐を使わずに紙をただ束ねただけのスケッチブック、それだけだ。
開けることのできない窓枠が、かたかたと小さく音を立てている。
風は少し吹いているが、薄赤い夜空に雲はほとんど無い。明日はきっとよく晴れるのだろう。
気絶したようにこんこんと眠る少年に毛布を掛けてやり、ふと自分のカップの底に少しだけ残っていたコーヒーに気がついて飲み干した。
つい先程まで香ばしい香りを放っていたはずのそれは、どろりと冷え切った汚泥のような味がする。
なんだか無性に娘に会いたい気分だった。